生涯学習研究e事典
 
登録/更新年月日:2015(平成27)年12月28日
 
 

華族が組織した成人学習の機会 (かぞくがそしきしたせいじんがくしゅうのきかい)

キーワード : 成人教育、華族、華族会館、華族同方会、学習院同窓会・桜友会
伊藤真希(いとうまき)
2.華族の成人の学習機会1 −華族会館の学習機会の提供―
 
 
 
 
  [学習会]
 明治7(1874)年の華族会館の設立当初、会館の施設は式典と運営会議での使用が多かった。また華族会館の設立目的である華族の知識の発展と、会館への求心力の維持のために定期的な講義形式の勉強会も行われ、設立年より横山由清による「国史攬要」、元田永孚による「論語」、尾崎三良による「英国史」の和漢洋の講義が行われた。これらの講義は同9(1876)年の初めまでに終った。
 明治13(1880)年には会館が和漢洋の講義を再び企画した。副館長浅野長勲は、華族を集めて講義の説明会を行い、華族が皇室の藩屏と国民の模範となる為には華族間での交際と学習が重要であるとして、講義への参加を促した。国学は本居豊頴「日本書紀」、漢学は阪谷朗廬「孟子」が開講され、各60名程の受講者がいた。洋学は法学の講義だった様であり、名村泰蔵「刑法治罪法」が開かれ、受講者は30名程だった。同年8月には史記輪講を行う有志の会も作られた。明治15(1882)年には穂積陳重の「政理学」の講義が始まった。同17(1884)年には参加者が減少した国学の講義と歌書講義の会館による費用支出が廃止された。法学の講義は明治20(1887)年には山吉盛光の「独乙国法論」が始まった。
 当初、国学と漢学の講義に参加希望者が多かったが、洋学と捉えられていた法学の重要性が増し、法学の講義は明治20(1887)年以降も続けられた。大正期に入ると会館主催で連続講義形式の学習会が行われた様子はない。東京にて最初に行政的に成人教育が行われたのは、明治16(1883)年の就学奨励の為の親に対する通俗教育であり、本格的に通俗教育が発展したのは日露戦争以降である。華族社会は一般社会よりも早く組織的な成人教育に着手していた。
[講演会]
 華族会館主催の講演会活動には、明治12(1879)年からの談話会の活動がある。華族の学識の発展の為に多様な分野の講演会を月1回行う予定だったが、5月〜10月迄しか活動されなかった。同年7月のエドワード・S・モースの講演会は皇族を招待する等、大々的であったが、以降華族会館主催の講演会は見られなくなっていった。
 大正期より華族会館主催で同族講話会なる講演会が行われた。実際に開催された事がわかる大正8(1919)年〜昭和9(1934)年迄の28回の講話会の題名によれば、国際関係、国際理解が主題の講演ばかりである。特に高楠順次郎「欧州近況視察談」、神田乃武「欧米帰朝談」等、海外帰国者の視察談が多く、華族会館が聴講者に講師の実体験から国際情勢を読み取らせようとする姿勢が窺える。華族会館設立前の明治4(1871)年、明治天皇は華族の子弟に対して「華族に海外留学周遊を奨励し給へる勅諭」を出した。その為海外事情に深く知識を持つことは華族の一つの大きな義務として捉えられてきた。華族会館では設立当初から、海外事情を知る為に海外の書籍等を購入しており、図書室等で海外の新聞・雑誌も閲覧できた。以上の事から海外情勢を知る為の講演会を企画していたと考えられる。
[その他の学習活動]
 明治13(1880)年から華族の武術の向上の為、華族会館主催で乗馬と射的(小銃)の奨励会が行われた。大正期以降の華族会館には囲碁部、将棋部、謡曲部、運動部、撞球部の活動もあった。これらの活動から華族同士の親睦が図られていた。 添付資料:表 華族会館主催の講話会
 
 
 
  参考文献
・霞会館華族資料調査委員会編『華族会館誌』上下巻、吉川弘文館、1986年。
・霞会館華族資料調査委員会編『会館雑誌』霞会館、1995年。
・華族会館『華族会館報告』第38号、第31号、第33号、第35号、第37号、第39号、第40号、第43号、第45号、第49号、第50号、1916年〜1935年。
・松田武雄『近代日本社会教育の成立』九州大学出版、2004年。
 
 
 
 
 



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