登録/更新年月日:2010(平成22)年9月28日 |
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そこで、この「生涯教育(学習)」は、特に地域において、どのように実践されてきたか。分析の視点は、基本概念である「統合=インテグレーションintegration」の実現具合ということになる。具体的には、その「統合」を実現するシステムや施設、学習プログラム等の状況(推進体制、各種ネットワーク、学習機会・施設設備、学習情報提供・学習相談体制、指導者等の養成や配置等)である。端的には、個々の推進体制、各種ネットワーク、学習機会・施設設備、学習情報提供・学習相談体制、指導者等の養成や配置等は、一定限度は実現されており、その限りにおいては、施策の成果はそれなりにあったと言うことはできよう。例えば、生涯学習審議会や推進協議会、生涯学習推進センター等の設置、広報誌の発行や各種相談員・コーディネーターの配置等である。ただし、それらが、その「統合」の内実を十分に実現し得ているかと言えば、そうとは言えない。しかもそれらは、近年では、いわゆる「息切れ」や「マンネリ」、あるいは「縮減化」が進行しつつある状況にある。 とは言え、このことは、表面的には財政事情の悪化によるが、本質的には、そこでの「目的論」と「方法論」が整合化されていなかったことにもよるのではないか。つまり、「タテの統合(いつでも→目的論)」を実現するための手段・方法が、「ヨコの統合(どこでも→方法論)」だったのではないか。例えば、学校教育と社会教育の連携・協力を唱えた「学社連携・融合」は、「ヨコの統合」の要素・現象であり、それは、「目的」を実現するための方法論ではなかったか。そこが曖昧であったがために、目的実現に関わる具体的な言説(説得力)が、学校や教師をはじめ関係者相互に浸透していなかった。したがって、「学社連携・融合」の意義や必要性を、ただ漫然と唱えるだけでは、強固な現状を変える力にはならなかった。ある種演繹的(理論的)に主張するだけでは、新たなしくみづくりのエネルギーや具体的な着弾地(イメージ化された姿・形)の共有化には繋がらなかった。キャッチコピー的には誰しもが口にした、この「統合の原理」ではあったが、かなり情緒的ないしは儀礼的な言説で臨んでいたのではなかったかということである。 ちなみに、多くの人々が、今なお困惑ないし誤解しているのが、「教育」と「学習」の関係理解であろう。それはまた、その多くの人々が了解しているつもりの、「生涯学習」という概念の曖昧さということにもなる!「生涯教育」から「生涯学習」へ、「社会教育」から「生涯学習」ないしは「社会教育・生涯学習」へ、そして「教育」から「学習支援」へといった変遷は、単なる用語転換に止まらずに、活動や対象の範囲・位置づけ、さらには行政等の守備範囲にまで問題を残してしまった。さらにはまた、実はそこでは、学校教育以後の成人の学習(支援)が前提とされていたのではなかったかということもある。だから、「教育」から「学習」への転換が、ある意味スムーズに進行したとも言えるのではないか。しかし、果たしてそれでよかったのか。問題の様相は、多層にある。 br> |
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参考文献 ・井上講四「生涯学習研究と地域における生涯学習推進30年と課題〜何が、どのように提起され、いかに実現されてきたか?!〜」『日本生涯教育学会年報』(第30号)、67-82頁、2009年11月 ・井上講四「求められる生涯教育(学習)施策の新たなる機軸と枠組み」『日本生涯教育学会年報』(第27号)、3-10頁、2006年10月 ・井上講四「生涯教育(学習)政策・研究の今日的状況とその諸相−その新たなる基軸と枠組みを求めて」『琉球大学生涯学習教育研究センター研究紀要』(創刊号)、1-28頁、2007年3月 |
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