登録/更新年月日:2006(平成18)年9月23日 |
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これまでは公民館の構想及び先駆的社会教育施設について述べてきたが次に「公民館」という名称の起源、そして実際にこの名称を持っていた施設について述べることにする。 〔公民館〕ということばは、昭和21(1946)年 7月 5日の「文部次官通牒」以後のものであるとするのが定説であるが、前述のように菅原が昭和4(1929)年にはじめて〔公民館〕ということばを作って使用している。したがって、〔公民館〕という名称が出現したのは昭和4(1929)年だといってよいと思われる。しかし、実際にこの名称を持った施設が、はじめて出現したのは昭和16(1941)年であった。それは、岩手県水沢市の水沢市公民館であった。 「自ら『公民館第1号』と称する岩手県水沢市の水沢市公民館 (後藤新平記念公民館) の前庭には、つぎのような碑文を刻んだ石碑がある。」(全公連編『全公連25年史』昭和51(1976)年、5頁)。 「本記念公民館は後藤新平伯爵の生前其知遇を受けたる読売新聞社長正力松太郎君が故伯の忠誠豪邁なる人格を永く地上に標置し以て薫化育英の源泉と為さんと欲し故伯の出身地水沢町を選んでこれを建設寄付したるものなり、昭和16年11月3 日水沢町」。 「正力松太郎が後藤新平伯の恩義に報いるため、昭和15年, 水沢に記念施設を建設 する計画をたてた当時は『記念公会堂』であった。しかし、建築制限のため公会堂建築が不許可になったので、当時建築許可事務の主菅庁である商工省総務局長椎名悦三郎氏は、正力氏のたてた施設に「公民館」という名前をつけた。」(同書5-6頁) 公民館の名称については、戦前においても例がないわけではない。 たとえば上記の岩手県水沢市公民館は 昭和16(1941) 年に創立されるが、公民館という名称がもちいられたのはまったく偶然によるものであって一般の公会堂とほとんどかわらず、とくに固有の発想によるものではなかったと思われる。また、昭和21(1946)年度の長野県社会教育事業計画案には、新規事業として「公民館(仮称)の設置奨励」がうたわれている。 さらに、岡本正平(当時全日本社会教育連合会事務局長)によれば、同年、当時の東京女子高等師範学校で開かれた公民教育指導者講習会では、社会教育局長佐藤得二が「これからの社会教育はしっかりした施設において行わなければならない、そのために例えば公民館の如きものを市町村に設置する必要がある」と強調し、文部省に公民館設置についての計画があることを明らかにした。 しかし、戦後公民館の設置をはじめて(昭和20(1945)年12月)提案したのは、寺中作雄氏であった。 岡本は、寺中 が、「公民館という名称を考えた時に公民教育課長であったからで、はじめから社会教育課長であったら案外社会教育館になったかも知れないし文化課長だったら文化会館としたかも知れない。公民館という名称にはそんなに深い意味はなかった」といったと述べている。 現在の公民館という名称はこのような事情で生まれたとはいえ、すでにみてきたように戦前にその名称があり、その名称をつけた施設があったことだけは確かである。 br> |
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参考文献 全国公民館連合会編『全公連25年史』、昭和51(1976)年、社団法人全国公民館連合会 |
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