登録/更新年月日:2010(平成22)年9月28日 |
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周知のように、「生涯教育(学習)」というテーマは、1965年のユネスコ会議(「成人教育推進国際委員会」)での世界的提言、そしてそれを受けた、昭和46(1971)年の我が国での政策的位置づけ(その年の社会教育審議会並びに中央教育審議会の両答申)からすると、随分過ぎるほどの年数を経ている。しかし、この間、果たして「生涯に亘る人々の学習をよりよく保証するしくみ、そしてまたその成果が適切に評価される社会」がどれほど実現しているのだろうか。残念ながら、答えは、否であろう。したがって、まだまだこのテーマは、生き続けているし、それどころか、むしろ新たな課題を我々の前に突きつけているとも言えよう。その意味では、「生涯教育(学習)」というテーマは、何と「長命な」テーマであろうか。ただし、それと同時に、一方では「長命である」理由、別言すれば、ある種「普遍的な」理由が、そこにはあったということにもなる。 その「長命である」あるいは「普遍的な」理由とは何か。それは、いみじくも、「いつでも、どこでも、誰でも、(何でも)、(どこからでも)学べる社会の実現」という、かの著名なスローガンに見出すことができよう。我々人間社会の教育・学習は、決して人生の早い一時期のみで完結するものではなく、まさに「生まれてから死ぬまでの」全生涯に亘るもの(life-long)、そしてまたそれ故に、全生活に関わるもの(life-wide)という発見ないし再定義が、そこにはあったということである。誰が何と言おうとも、この事実は変わらないし、それ以上の発見ないし再定義はあり得ない。実は、このことが長命あるいは普遍的である真の理由だということになる。 いずれにしても、要は、そこにおける内実(システムや学習機会・プログラムの提供状況等)であり、その内実が十分でないのならば、絶えず、そしてまたある意味では永遠に、そのあり方が議論され続けることになる。逆に捉えれば、今なお生涯教育(学習)としての実践が、その課題性を失ってはいないということであれば、それは同時に、現在も、その内実が十分には備わっていないということにもなる。果たして、この間何が、どのように提起され、いかに実現されてきたのか。とにかく今、ここの部分が問われる必要がある。何故なら、まさに「生涯教育(学習)」は、その岐路にあると判断されるからである。 ちなみに、この問題意識には、二つの次元がある。一つは、「生涯教育(学習)」という理念の、歴史的・学的な存在状況やそのプロセスを追跡し、分析するという次元であり、もう一つは、現実の様々な教育問題に対処するためのアイディアや方向性を、いかにその理念が照射し、具体的な解決方策を導き出してきたかという次元である。推進という点からは、当然後者の次元が強く意識される必要がある。ここで重要なのは、生涯教育(学習)の理念それ自体がどう扱われているのかということよりも、現実の諸問題の解決に向けて、その理念が具体的に、どのように咀嚼され、貢献できているかということである。 br> |
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参考文献 ・井上講四「生涯学習研究と地域における生涯学習推進30年と課題〜何が、どのように提起され、いかに実現されてきたか?!〜」『日本生涯教育学会年報』(第30号)、67-82頁、2009年11月 ・井上講四「求められる生涯教育(学習)施策の新たなる機軸と枠組み」『日本生涯教育学会年報』(第27号)、3-10頁、2006年10月 ・井上講四「生涯教育(学習)政策・研究の今日的状況とその諸相−その新たなる基軸と枠組みを求めて」『琉球大学生涯学習教育研究センター研究紀要』(創刊号)、1-28頁、2007年3月 |
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