生涯学習研究e事典
 
登録/更新年月日:2008(平成20)年12月24日
 
 

大正期における民間の学習活動 (たいしょうきにおけるみんかんのがくしゅうかつどう)

private activities of learning in the Taisho Era
キーワード : 社会運動、セツルメント、夏期大学、自由大学、新中間層
久井英輔(ひさいえいすけ)
3.農村における「大学」と学習活動
  
 
 
 
  【農村における文化教養への需要】
 大正期においても、農村の若者にとっての教養・文化への渇望と、実際に得られる学習機会とのギャップは、非常に大きなものであった。この教養・文化への渇望は、大正デモクラシーの潮流にも乗り、「大学」の名を冠する学習機会を求める、地域の運動として結実していった。
【夏期大学の事例】
 大正期の農村部における高等教育レベルの知識を提供する学習機会を形成しようとする動きの例として、いくつかの「夏期大学」が農村部に設置される動きが見られた。
 なかでも、現在まで活動を続けているものとして、長野県の木崎夏期大学が注目される。長野県では、県内の学校長、視学などの運動により、「学俗接近」論を説いていた政治家・後藤新平の協力を得て、1917(大正6)年に信濃通俗大学会が発足している。同年の夏より、北安曇郡の木崎湖畔で夏期大学が発足している。木崎夏期大学の運営は大学教授らによる本格的な授業が行われ、その運営はのちに北安曇郡の教育会にゆだねられた。
 木崎夏期大学の発足投書の経緯は、必ずしも完全な民間レベルの運動とはいえなかったものの、教育政策からは実質的に独立した自主的な運営が行われたという点、またその学習活動が現在に至るまで継続しているという点は特筆すべきである。
【自由大学運動】
 設立の時点において、より地域住民の自発性が際だって見られた事例として、長野県を中心として1920年代に展開した自由大学運動がある。自由大学運動ははじめ、長野県の上田地方の農村青年と、哲学者・土田杏村との交流から始まった。土田が当時唱え始めていた「文化主義」から導かれる文化的機会均等の理念と、経済的・時間的な余裕に比較的恵まれながらも蚕業農家の後継者であるなどの理由で進学の道を選択できず、文化教養の獲得の場を渇望していた農村青年が多数存在したことが、この運動の発端の背景にあった。また、大正デモクラシーの風潮や、青年団自由化の動きを背景として、その自由化の進展に飽き足らない農村青年たちが、自由大学運動に集ったという側面もあった。1921(大正10)年11月に開始された信濃自由大学(後の上田自由大学)は、経済学、哲学、社会学、文学論など、人文・社会科学中心の科目で構成されていた。農村青年等の「教養」への欲求をみたす学習機会として機能していた。
 この自由大学設立の動きは、長野県の他地域や、新潟県、群馬県などにも波及したが、農村恐慌の影響による受講者の減少、政治的志向を巡っての運動の分裂などにより、昭和期に入るまでに相次いで消滅した。このように自由大学は、比較的短期間に終わった学習運動であったが、このような学習活動の場が、知識人の主導のみに依存せず、農村青年の積極的な参画によって支えられていたことは、自発的な学習運動の一つの理念を示した事例として注目される。
 
 
 
  参考文献
・猪坂直一『回想・枯れた二枝 −信濃黎明会と上田自由大学−』上田市民文化懇話会、1967年
・国立教育研究所『日本近代教育百年史7 社会教育(1)』教育研究振興会、1974年
・北安曇教育会編『信濃木崎夏期大学物語』信濃教育会出版部、1978年
 
 
 
 
  



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