登録/更新年月日:2009(平成21)年4月27日 |
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アール・ブリュット(art brut)=生の芸術(仏語)は、美術教育や商業主義に加工されていないものが真の創造だと考えた画家ジャン・デュビュッフェが1945年に命名した、芸術に対する概念そのものを指す。 「生」というのは芸術の専門的な教育を受けていない人々が、名声や既成の流派に影響されず、自身の内側から沸き上がる衝動のままに表現した芸術を意味し、特に美術業界と一般市民社会との二重の外部者(精神障害者や交霊術者、囚人など)と考えられていた人々が制作した作品は、既存の教育や文化に毒されていない無垢な芸術作品と見なされた。1970年以降、米国で「アウトサイダー・アート」という英訳のもと、外れ者という作者の属性だけが強調されていくようになる。 このような精神的、社会的な差別を受け、世間から隔離された人々の作品が20世紀初頭の知識人や芸術家たちに紹介される契機となったのは、ドイツの精神科医ハンス・プリンツホルンの『精神病者の芸術性』(1922年)が出版されたことにある。精神病院から集められた絵画や造形作品を紹介されたことにより、単なる病の診断材料に過ぎなかった患者たちの造形が、ヨーロッパの前衛芸術家たちに新たな創造性のモデルとして大きな影響を与え、第二次大戦後スイスの精神病院を巡り作品収集をしていたデュビュッフェがパリで展覧会(1949年)を開催したことで、アール・ブリュットは芸術として広く認知されるようになった。 この背景には、子どもの造形や街角の落書きなどに目を向けていたピカソやクレーをはじめとする、旧態依然の美術界を嫌悪しつつも、あえてその中で生きていた芸術家たちの真の芸術を求める強い風潮があった。このようにアール・ブリュットは社会的視点も加味されながら、反権威主義の象徴として、さらに芸術の根源的意味を捉え直す契機として誕生した。 1990年代以降、アール・ブリュットの精神は障害を持つ人々が社会的つながりを持つ手段として、また彼らの創作活動を通して全ての人が芸術で自由に自分を表現し、豊かに生きるためのコミュニティ作りの活動へと広がっていく。それらの作品をエイブル・アート、ワンダー・アート、ボーダレス・アートと呼ばれ、日本ではトヨタ自動車が活動の最大のスポンサーとして知られている。 2005年、アート・デザイン分野に特化した日本初の福祉施設「アトリエインカーブ(大阪市)」は、知的障害者たちの展覧会をニューヨークで開催し、著名な芸術家や収集家の賞賛を受けた。今日、日本のアール・ブリュットは世界へと発信されている。 br> |
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参考文献 ・モーリス・タックマン、キャロル・S・エリエル編『パラレル・ヴィジョン−20世紀美術とアウトサイダー・アート』世田谷美術館,淡交社,1993年 ・Thevoz, M.,"ART BRUT Kunst jenseits der Kunst ",AT Verlag,1990. |
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