登録/更新年月日:2006(平成18)年12月15日 |
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【都市新中間層と生活改善運動】 大正後期において生活改善運動が短期間であれ社会的に注目を集めたのは、当時の都市部においていわゆる新中間層(公務員、会社員、教員などの俸給生活者とその家族)が成長しつつあったことと大きな関連がある。 都市新中間層は、生活や教育の問題を個々の「家庭」の問題と捉える傾向をより強く有する存在であった。また新中間層は、規範・知識の共同体的伝達形式から離脱していたがゆえに、教育による再生産戦略としての子どもの進学・学力への関心、更には自らが享受する教育・知識にも高い関心をもち、マス・メディアを通した科学知識・専門知識の受容にも比較的積極的であった。生活改善運動の活動内容は、上記のような新中間層の性格に対応したものであった。このような傾向を持つ階層においては、日常生活の科学化、合理化という生活改善運動のメッセージは受容されやすいものであったといえる。 他方、大正後期の生活改善運動が都市新中間層を主対象としていたことは、運動のその後の停滞とも関わっている。生活改善運動が提示する生活モデルの多くは、新中間層の所得から見ても水準のかなり高いものであった。従って、1920年代の慢性的な経済不況により大きな打撃を受けた新中間層にとって、生活改善運動の提示する生活モデルは現実から遊離したものとなり、モデルとしての魅力は次第に失われていったと考えられる。 また、大正・昭和初期においては、都市新中間層の人口規模は全集業者数の10%未満に過ぎず、都市新中間層を対象とした生活改善運動が大規模な組織的運動へと展開する可能性は低かった。それに加え、共同体的な規制に縛られない都市新中間層は、そもそも社会教育事業の対象として組織化、動員されにくい階層であった。生活改善運動に限らず、中央教化団体連合会、大日本連合婦人会等の官製組織による社会教育事業でも、少なくとも1920年代において都市部住民の組織化をめざす動きは、それぞれ困難に直面していたのである。 【新中間層以外を対象とする生活改善運動の展開】 戦前の生活改善運動に関する研究では、上記のように都市新中間層の女性が主対象であったという点を軸に運動の性格が論じられてきた。しかし運動の活動実態を詳細に見ると、決して対象は都市部、新中間層に限られていたわけではなかった。 例えば、都市新中間層を主対象とする形で生活改善運動の旗振り役を担ってきた生活改善同盟会は、1930年代にはむしろ都市部よりも農村での運動を重視し始めている。都市部の工場労働者層、都市下層を対象とした記事・論説も数は少ないが生活改善同盟会の機関誌で確認される。また、農林省を中心に1932年以降展開された経済更生運動は、農村を対象とした生活改善運動としての色彩を強く有していた。昭和初期の産業組合中央会の機関誌『家の光』のように、農村の生活改善に関する様々な情報を提供するメディアが存在したことも見逃せない。 このように、戦前の生活改善運動の対象は決して新中間層に限られていた訳ではない。単に戦前期の生活改善運動を都市新中間層と結びつけるだけでなく、様々な社会階層の生活問題が「生活改善」という概念のもと同じ俎上にのせられ、相互に関連づけて捉えられたという点もまた、生活改善運動の一側面として重視されるべきである。 br> |
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参考文献 ・板垣邦子『昭和戦前・戦中期の農村生活−雑誌『家の光』にみる−』三嶺書房, 1992年 ・高橋準「新中間層の再生産戦略−1910年代・20年代日本におけるその「自己との関係」−」(『社会学評論』第43巻第4号, 1993年) ・小山静子『家庭の生成と女性の国民化』勁草書房, 1999年 ・久井英輔「大正後期・昭和初期の生活改善運動における〈都市〉と〈農村〉−事業の対象をめぐる言説とその変遷を中心に−」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第44号, 2005年) |
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