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登録/更新年月日:2008(平成20)年1月1日
 
 

セントルイス万博における展示 (せんとるいすばんぱくにおけるてんじ)

キーワード : セントルイス万博、異文化交流、国家イメージ
楠元町子(くすもとまちこ)
1.セントルイス万博における展示
   
 
 
 
  (1)セントルイス万博の概要
 セントルイス万博は、米国が1803年にフランスからルイジアナ地域購入後百年を経過したことを記念して、1904年4月30日から12月1日にかけてミズリー州セントルイスで開催された。セントルイス万博は20世紀に入って最初の大規模な万国博覧会であり、総面積514ヘクタールの会場内に1576の建築物が並び立った。
(2)各国政府館の展示
 万博では建築物自体が展示品であり、参加国44カ国のうち21カ国が政府館を建設した。欧州の国々は、フランスがヴェルサイユ宮殿の一部を模し、イタリアが古代ローマ時代の建物を建築したように自国が最も輝いていた時代や文化を象徴するような政府館を建築した。アジアの国々は、インドがイスラム教、シャムが仏教寺院を模したように宗教色の強い政府館、南米諸国は宗主国スペインの影響が強い建築物、一方ベルギーやオーストリアは斬新な建築様式を用いるなど各国がどのような自国のイメージを参観者に示したかったのか如実に表していた。また館内の展示品も、ドイツが化学薬品、フランスが美術品、中国は3000年の歴史を誇る古美術、アルゼンチンやメキシコは熱帯の豊かな農産物などを陳列し、その国の特徴を参観者に認識させる効果を狙っていた。
(3)アジアの展示
 米国は、帝国主義政策に基づき、社会進化論と人種差別主義を背景にした悪名高い「人間の展示」を大規模に展開し、フィリピン統治の正当化を意図した広大な「フィリピン村」の展示を行った。「フィリピン村」全体で、40の種族1200人の植民地住民が実際に居住し、見物人の奇異のまなざしを浴びながらフィリピンの自宅と同じ生活を余儀なくされた。
 初めて万博に公式に参加した中国は、清朝皇族の溥倫(Pu Lun)を派遣し、中華思想の下に国家の威信をかけて西洋と異なる文化を前面に出した展示を行なった。精巧な彫刻が施された建築物や家具、金糸の刺繍や色彩豊かな服装がその豪華さ、華麗さから米国人の興味を引き絶賛された。しかし中国の展示物は米国の当時の基準からは過去のものであり、纏足や弁髪などの中国の風習は遅れた中国の象徴と見られた。
 万博の日本村で興行した日本芸者の一行は「ゲイシャ・ガールズ」と呼ばれて、万博の会場に到着した時から、服装や習慣が米国人の眼を引いた。日本政府は国際的に日本文化としての芸者を印象付けようとし、万博のパンフレットに芸者の絵を用いるなど「ゲイシャ・フジヤマ」の日本イメージの形成に積極的に関与した。
 欧米諸国は自国の権威と文化を強調する展示、アジア諸国は宗教色の強い展示を行い、各国の明確な意図を持った展示戦略は、その後20世紀の各国の持つ国家イメージを強烈に形成する役割を果たした。また万博の参加国は、展示物を説明するため自国民を派遣したので、参観者は政府館や展示館で異文化の人々と直接交流し、より具体的に異文化の知識を得ることができた。西欧諸国が鉄道模型や化学品のように工業品を展示したのに対し、南米やアジア諸国は鉱山資源や農産物の展示が中心であり、万博の展示は参観者に近代的西欧を視覚させる効果があった。セントルイス万博での中国や日本が示した非西欧諸国の展示に対して、米国人は「異質」な点のみに興味を抱き、西洋文化の優秀さを再確認し、世界をリードしていくのはやはり西洋であるという世界観を形成したといえる。
 
 
 
  参考文献
・楠元町子「万国博覧会と中国―1904年セントルイス万博を中心に」愛知淑徳大学論集(現代社会学部・現代社会研究科篇)、第10号、2005
・楠元町子「国際関係史から見た万国博覧会―1904年セントルイス万国博覧会を中心に」法政論叢、第43巻・第2号、2007年
・楠元町子「万国博覧会の展示と世界観の形成―1904年セントルイス万博を中心に」日本生涯教育学会論集、第28号、2007年
 
 
 
 
   



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