登録/更新年月日:2006(平成18)年1月27日 |
|||||||||||||
|
|||||||||||||
|
|||||||||||||
【説明・動向】 近代家族は地域社会から孤立し、家族の強い凝集性、それを支える情緒的絆、一方で性別役割分担を自明のものとし、外で働く父親と育児・教育を一手に引き受ける専業主婦の母親の存在を特徴としている。近代家族がそのような特性を強化したがゆえに、家族が必然的に抱え込んだ子どもに関わる問題群がある。例えば、60年代後半には「教育ママ」という言葉が流行し、家庭が学校への過剰適応を示すことによって<教育家族>が広まる。学校的な価値観を受け入れた画一化した家族像が普及し、家族の主体性は逆に衰退し始める。家事の電化・外注化が進むなかでエネルギーを蓄えた母親は、社会の高学歴化の流れに乗って、ますます子どもの教育に心血を注ぐようになる。父親不在による「母子密着」が社会問題化する。家庭や学校で感じる子どもたちの逼塞感はジワジワと深まってきたと考えられる。70年代後半には家族殺傷事件が増加し、80年代にかけて家庭内暴力、校内暴力も多発する。1980年に起きた「予備校生金属バット殺人事件」は、情緒的絆に支えられているはずの親子関係の揺らぎが、「親殺し」にまで先鋭化したことを印象付けた。 さらに、もうひとつの問題群は、近代家族観が揺れ始めることで家族のあり方が多様化し、家族の凝集性が弱まるとともに「家族規範」が希薄化するなかで生じたものと考えられる。社会のあらゆる領域に行きわたった個人主義化の波は、家族にとってマイナス機能として働く場合があり、家族内で「コミュニケーション不全」が起こる要因にもなった。精神科医の小此木圭吾は、70年代後半に近代家族像が揺らぎ多様化を深める様子を「家庭のない家族の時代」と表現し、富裕化のなかで家族機能が外部化され、個人主義化が進行するなかで親子の親密なコミュニケーション空間が形骸化していく様子を喝破した。 家族機能が縮小するなかで、最後まで家族の機能として期待されていた「子どもの社会化」「人間形成の場としての家庭」「安らぎや憩いの場としての家庭」という親密空間を保証するはずの家族・家庭の存在が危うくなり、家族機能不全と指摘されるような状況が見られようにもなった。高度消費社会、高度情報化、価値観の多様化、個人主義化、自己実現欲求の深まりという社会状況が、子どもの生育環境を激変させ、親子関係を揺るがしていくのである。 【課題】 このような家族のなかで、子どもは帰属意識やアイデンティティ欲求(自分の存在証明)を満たすことができない。一方で、大衆消費社会は子どもをひとりの消費者として大人と同様な地位で扱い、また高度情報化社会では子どもにとって必要な情報を持たない親はその権威を相対化せざるをえない。親の世代が経験したことのない、質的に異なる社会経済状況のなかで生育する子どもたちの心象風景を捉えきれず、しばしば「子どもが見えない」と表現されるようになった。多様化する家族という現象のなかで、個々の家族はその選択可能性の拡大に耐え得るだけの自律性を持たねばならない。しかし家族の自律性を支えるためには、逆説的ではあるが、外部からの支援が不可欠な時代となっている。 br> |
|||||||||||||
|
|||||||||||||
参考文献 ・小此木圭吾『家庭のない家族の時代』ちくま文庫、平成4年 |
|||||||||||||
『生涯学習研究e事典』の使用にあたっては、必ず使用許諾条件をご参照ください。 |
|||||||||||||
Copyright(c)2005,日本生涯教育学会.Allrights reserved. |