登録/更新年月日:2006(平成18)年1月27日 |
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1)「教育力」とは何か 語義的に端的に説明するならば、人間におよぼされる「教育的影響力」である。 もう少し具体的に言えば、人間の心身両面における成長や発達の過程に対し、周囲の諸々の環境から与えられる多種多様な情報や刺激や経験などの総体を意味する。 われわれに「教育的影響力」を与え得る環境の例として、自然環境、経済状況、住宅環境、栄養状態、学校教育制度など、様々なものをあげる事ができる。 しかし、「教育」という人間の営為が、基本的に「人間対人間のコミュニケーション」を基盤に成立する事を考えれば、その中核となるべきものが「人間」「人間関係」なのは言うまでもなかろう。 したがって、「地域(地域社会)の教育力」という言葉を用いて何かを論じる際には、それが「誰かが他の誰かにおよぼしている(およぼし得る)教育的影響力」である事に留意すべきである。 すなわち、そこで論じられる「地域(地域社会)」とは具体的に「誰(何)を意味するのか」という問いかけの態度を常に持ち続けないと、われわれはこの言葉を、単なる抽象的で意味曖昧な虚しいスローガン(標語)的存在に終始させてしまうのである。 2)「地域(地域社会)の教育力」論の前提 近年における国家政策としての「子育て支援」、そして、それをめぐる各所での論議における「地域(地域社会)の教育力」の取り上げられ方でとりわけ気がつくのは、「地域(地域社会)」がまるで、父母(家庭)あるいは学校の役割や機能を代行し得るかのような論調が存在する事である。だが、「地域(地域社会)」は本当に、父母(家庭)や学校の代役的存在となり得るのだろうか。 「少子化」問題対策との間の一種不幸なねじれ状況の中で、「地域(地域社会)が子どもたちを育てる」風の主張までなされる事もあるのだが、それでは一体、子育ての最終責任はどこにあるのだろうか。あるいは、義務教育(普通教育)を実現する責任は誰が担うべきなのか。 「地域(地域社会)」が担い得る教育的機能が極めて大きい事は改めて言うまでもない。また、それを実際に担っていかなければならないのも事実であろう。しかし、それは決して、父母(家庭)や学校の役割機能を代行する事ではない。 「地域(地域社会)の教育力」を、一種の流行語にしてはならない。 br> |
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参考文献 |
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