生涯学習研究e事典
 
登録/更新年月日:2009(平成21)年4月8日
 
 

青年学級の歴史 (せいねんがっきゅうのれきし)

キーワード : 青年教育、青年学級振興法、青年教室、勤労青年学校、青少年教育
坂本登(さかもとのぼる)
2.動向
  
 
 
 
   昭和22(1947)年3月に学校教育法が公布され、同年4月からは、3年制の新制中学校がスタートし、小学校の6年間を含め、義務教育9年間の新しい教育制度へと移行した。さらに、翌昭和23(1948)年4月には新制高等学校が発足し、それまで青年たちが職業生活や日常生活について学んでいた、青年学校が廃止される。
 青年学校の廃止は、経済的、時間的、距離的などの学習条件に恵まれない勤労青年たちの学習機会への参加を阻害することとなった。こうした状況の中、東北地方をはじめ全国各地で青年夜学会、青年講座、青年学級等の名称で、青年たちによる自主的な学習集団が芽生えていく。青年たちの草の根的な学習活動に着目した、山形県知事にあった村山道雄は、「市町村の責任において設置する青年学級の開設をおしすすめ」(平沢薫・三井為友編『現代社会教育事典』63p、昭和43年(1968)、進々堂)、山形県独自の青年学級の開設要項を定め、昭和23(1948)年4月、市町村が開設する青年学級に対し「270万円の県費助成を開始した。」(宮本一『日本の青少年教育施設発展(補巻)』73p、平成15(2003)年、日常出版)。
 同じ頃、国の教育刷新委員会は「青少年の社会教育の振興について」を建議(昭和23(1948)年8月)し、「学校又は公民館に15歳位より20歳前後の青少年の補完的教育機関として、定期の青年講座又は社会学級青年部等の開設」の必要性を提案した。こうした提案と、昭和24(1949)年に制定された社会教育法とがあいまって、戦後の、社会教育および青少年教育の推進体制が整っていく。
 その後、「青年学級が全国に普及するにつれて、その多様性は生かしながらも、学級運営上の基準を法定し、あわせて国庫補助の道をひらくべきであるという要望がしだいに強まり、文部省も法制化に着手」(文部省『学制百年史』)する。その結果、昭和28(1953)年には青年学級振興法が制定される。並行して、先に施行されていた社会教育法が改正され、市町村教育委員会の事務には「青年学級の開設及び運営に関すること」(同法第5条)が、公民館の事業には「青年学級を実施すること」(同法第22条)が追加された。さらに、昭和32(1957)年には社会教育審議会が「青年学級の改善方策について」を、昭和33(1958)年には中央教育審議会が「勤労青少年教育の振興方策について」を、それぞれ答申する。このように、当時の文部省は、勤労青年教育の中核に青年学級を据えて、その振興に積極的に取組んでいた。
 しかし、その実施件数と参加者数は、昭和24(1949)年(4,540学級、844,462人)から、青年学級振興法制定時の昭和28(1953)年(14,407学級、986,728人)を経て、昭和30(1955)年(17,606学級、1,091,734人)へと増加傾向を示す(『文部省年報』)ものの、その後急速に減少する。そして、平成7(1995)年度には、751学級、27,444人まで減少した。
 この背景には、高校や大学等への進学率の高まり、青年の家等の新たな社会教育施設の出現による青少年対象の学習機会の多様化と増加などがある。こうして、青年学級はその役割を終えたと判断される。平成11(1999)年7月16日、青年学級振興法が廃止(法律第87号)され、青年学級の制度は社会教育の表舞台から社会教育の歴史へと移された。
 
 
 
  参考文献
 
 
 
 
  



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