登録/更新年月日:2006(平成18)年1月27日 |
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【定義】 「修養」とはもともと道家の養生を指し示したが、一般的には徳を積み、道を修め、人格陶冶に励むことを言う。しかし現在、日本において、「修養」という言葉は死語に近く、「○○修養会」というように、宗教関係や社会教育関係の集まりなど、非常に限定して使われているのが実情である。私たちがかろうじて知っている範囲では、「精神修養」などと、心の鍛錬を指し示すくらいのものであろう。 しかし、「修養」という言葉は、第二次世界大戦終了前までは、さまざまに使用されていた。日本においては、その使用の歴史は古く、かつ日常的であったと考えられる。 【説明】 言うまでもなく、日本は本来神道の国であり、そこに5世紀頃に儒教が入り、そして6世紀に仏教が入り、次第にその3つの主要な(宗教的)基盤が日本人の精神性を形成していったと言える。その精神性を背景に、やがて、江戸時代の鎖国と幕藩体制という特殊な社会的事情の下、儒教的な訓えを中核として、「修養」という考え方が徐々に形成されていったと考えられる。 その「修養」の考え方をはじめて明確に説いたのが、江戸時代の思想家・貝原益軒(1630〜1714)である。益軒は代表作ともいえる『大和俗訓』『養生訓』などの書物を晩年著し、その中で次のように説いた。 この世界にはそれを覆っている「天」「地」がある。「天」「地」とは世界であり、宇宙であり、存在そのものである。そして人間はその「天」「地」の子どもであり、そこから恩恵を享けているのだから、天地の法則(天道)にしたがって、天地に恩を返して、生きなければならない。それが「人の道」である。「人の道」とは、具体的には仁義礼智信(五常)、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友(五倫)の道に則って生きることである。そのために、人々は先哲の言葉を手がかりにして、生涯にわたって「人の道」を探りながら生きるのである。(益軒自身は「修養」より「養生」という言葉を多く用いているが、その意味はほぼ同義である) つまり、修養にせよ養生にせよ、益軒にとって、学ぶとは即ち「人の道」を知ることであり、それが生涯にわたって続くものと考えられたのである。 この益軒に代表される修養論は、18世紀後半から19世紀前半の文化・文政の時代にかけて、武士階級のみならず、一般民衆にも大きく漫透した。常に「死」と隣り合わせの江戸時代、修養の考えはまた、人々の心のより所、生の証(あかし)となった。 やがて、修養論の広まりは、貨幣経済の発展を背景にして、民衆の間に多くの学習の場を生むことになった。寺子屋、日講所、私塾(漢学塾、蘭学塾、国学塾など)のようなよく知られた教育・学習機関が全国に数多くできた。また、俳譜、和歌、川柳などの芸能や嗜み事の学習サークルとも言える「連」「座」という非定型的な学習機関も拡大し、システム化されてくる。こうした学習機関、学習機会は、藩校など封建的身分制度に縛られる学校とは異なり、一般には身分を越えて士農工商すべてに開放されていたのである。また、同時期には修養のための出版物が増加し、貸本屋も普及し、民衆に書物はいっそう身近なものとなった。このように、江戸時代の後半から明治期にかけて、「人の道」を生涯かけて探ろうという一般民衆の「修養」の意識は高まり、そのための学習機関が多く広まったのである。 br> |
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参考文献 ・松田道雄編『貝原益軒 日本の名著14』中央公論社 1969年 ・渡辺弘編『援助教育の系譜』川島書店 1997年 ・R・ルビンジャー『私塾 近代日本を拓いたプライベート・アカデミー』サイマル出版 1979年 |
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